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ハピネス力循環の法則(仮

走り書きする。まだ仮だが、ちょっと面白いかもしれないゾ。今回の考え方。

 

 

まず実例。

ぼくは、ハピネス力の高さをずかちゃんから感じると、よく褒める。ぼくが幸せになるし。そういうときは、ずかちゃんは「何をほめられているのか分からないです。」と言う。最近は、そういう謎な褒め方をたまにされると、「謎ポイント」が貯まるということにしているらしい。

 

例えば、ほとんど中身も見ずに、テキトーに選んで買った、ぼくの弁当に、

「そのお弁当の豚肉!美味しいやつですね」→「ずかちゃんは楽しいね」と、ハピネス力を褒める→「おや、謎ポイントゲット」

その一言すら、ハピネス力が高い。

 

 

本人は確実に気がついていない。自分がいかにハピネス力が高いか。

ハピネス力は、ぼくが勝手に考えた言葉だが、「他人と比較しないで、自分の快楽を存分に楽しむ力」「比較から生じる不愉快に近づかない知恵」「いくらでも卑屈に取れる現象を、ひねくれずに楽しく享受できる素直さ」とか無粋な切り取りかたをすれば、多くの人に納得してもらえる考え方だ。

 

ずかちゃんが「ハピネス力」を観測できない事実がなんか変だ。

 

一方で、ぼくも、自分自身の「ハピネス力」があったことを、それがカノジョの人生を幸せにしたであろうことを、最近ようやく自覚した。

 

これも変だ。

 

 

で、こんなことを考えた。

 

他人のハピネス力は、観測できるが、自分のハピネス力は観測できない。

 

この仮説に従えば、自分にハピネス力が内蔵されていると指摘できるのは、他者であり、もし自分にハピネス力があると観測できたならば、それは他者の視点が自己に内在化されたときでしかあり得ない。

 

 

逆に言えば、自覚症状としては「私はハピネス力がない/足りない」というものがデフォルトであり、そういう状態が普通でいいのだ。なぜなら自分のハピネス力は観測できないから。

 

このブログのように、ハピネス力を言語化すると「こういうときは楽しいと言うべき」みたいな*ノウハウ*が貯まる。でも、そういった法則性により観測される括弧くくりの「ハピネス力」は、既にノウハウに成り下がってしまっているから客観視できちゃっているに過ぎない。自分本来のハピネス力ではない。

 

仮説の上に仮説を乗せるが、

 

みんな自分のことを「ハピネス力なんかない、あるいは足りない(低い)」と思っており、他者のハピネス力に救われている。

 

そして、自分のハピネス力を、あるいはかつてあった自分のハピネス力を、他者とかかわることで、初めて自覚できるのではないだろうか?

 

 

【仮のまとめ】

ハピネス力は他者が存在しないと観測できない力である。 

ゆえに、ハピネス力を維持し、高めるためには、人間は"他者"を必要とする。

 

 

いまいち、練りが甘いけれど、確実にひとつ先の考え方が見えてきた気がする。

この世界の美しさについて

ほとんど日記と化してしまったこのブログには、ぼくの思考を垂れ流しても許されるだろう。

 

ずかちゃんには「まったく分からない」そして、彼女にも「あんまり興味ない」と言われる領域なのだけれど、

 

 

この世界はとても美しい、と思う瞬間がぼくにはある。

 

 

今日は、

「人間は、文字を発明するときに、どうも、世界を認識するのと同じやり方で、発明している。つまり、人間は、自然を理解するように、文字を理解している」
という仮説に対する、ある研究者の素晴らしい世界の切り取り方を見た。

 

また、ぼくと同業者の、ひたすらに丁寧で「前向きな仕事」を見た。
色々拗らせてしまっているぼくにとって、
「業界では、ぼくはイレギュラーだ」という自己認知をしてしまっているんだけれど、
彼のアンテナは、同業者のくせに、ぼくの興味と非常に近く、自分の自己認知のちっぽけさを、改めて感じた。彼が興味を示している仕事は、どれもぼくには面白かった。

 


変な話だけれど、そういうものを見たとき、

ぼくは世界は美しいなぁ、たのしいなあと思うんだよね。

そして、ぼくは、そんな世界に関わりたいと思ってしまうのです。

 

 

ずかちゃんは「なんだかよく分からないけれど、ぼくさんが嬉しいなら、私も嬉しい」と言ってくれて、

彼女は、何も言わずに、僕の選択肢を否定しなかった。

こんな素晴らしい人生がほかにあるのか分からないけれど、

 

良い週末を過ごしたなぁと思うのでした。

ハピネス力の低いあの子の言葉

【メモ】

・あなたがいないと寂しい

・あなたが隣にいるとうざったい

 

 

【考察】

「楽しいときは、楽しいといったほうが、楽しいですよ!」という声が頭に反響して眩暈がするが、実際に彼女がぼくに対して感じていることと、ずかちゃんが旦那さんに対して感じていることが大きくズレているように感じない。つまり、心の姿勢は同じでも、態度はいかようにも変容するということだろう。

 

Constativeには、彼女にとっては、ぼくはうざったい人間だ。

けれども、Performativeには、彼女にとって、ぼくはうざったい人間ではあるものの、自分の本心を翻すことができないほどに、心を許している存在であるには違いない。

 


バレンタインのチョコをくれないとか、せっかく遠方から訪ねてきても、家に泊まることを本当に嫌がるとか、一緒にいるだけで息がうるさいとか、顔が汚いとか、スマホの音がうるさいとか、いろいろ言われすぎるし、せっかく二人で街を歩いても気に入らないことがあると一人でさっさと帰っちゃうけれど、

ぼくは彼女を「ハピネス力が低い」とか言ってdisったりはしないと心に誓おう。

 

ハピネス力という考え方は、他人が生きるのを前向きにするために使うんであって、むやみやたらに言葉にすることで、相手を傷つけては意味が無いんだ。

 

 

ぼくは、少しだけ幸せになったかなぁ。

発見x

【メモ】

ずかちゃんは「好き」「嫌い」がすごーーくハッキリしている。

会って1年経たない僕ですら、好きなものも、嫌いなものも、山のように出すことができる。食べ物の好き嫌いなんて、ちょっと笑っちゃうくらいだ。

 

でも、これは、ぼくが知っている「高ハピネス力」な方々に共通する特徴なのでメモ。


好きか嫌いかを断言できること、とハピネス力には相関性があるかもしれない。

 


【実感・考察】

ポストモダンが無限に行き過ぎると、好きというのも難しいし、嫌いというのも難しい。言うまでもなく、世界はすべからく合理的なもので、クズな人のクズな態度にも、突き詰めていくと、クズな態度をとらざるを得ない、合理的な力学が見えてくる。簡単には嫌えない。好きなものにも、どうしても嫌いなパラメーターが存在していて、全肯定は、危うさの裏返しだ。

 

 

ぼくは、そんなポストモダンな態度で生きているから、多くの場合、「好き嫌い」を素直に言うことができない。自分の職業もあまり好きじゃない。嫌いじゃないけど。

 

素直に言うと、好き嫌い、はあまり無い。

 

面白い面白くない、はある。

 

「面白い」は、特許の新規性・進歩性判断に似ていて、シンプルだ。その結果、たいていの事柄・食べ物は、たいして面白くないし、凡庸だということだ。

 

 

昔、新井某のザワールドイズマインというマンガに、マリアというキャラクターが出てきたて、「マリアは、作品や食べ物、人、カテゴライズせず、好きなものを羅列していける」というシーンがあって、とても感動したんだけれど、「こんな女いねーよ」と一蹴した記憶がある。

プラネテスのタナベの「知りませんもん、船乗りの理屈なんて、私の方が正しい!
」にも似たような印象を覚えた記憶がある。

 

 

ずいぶん回り道をしたものだ。

理屈と実感はこうも違うものか。 

マリアで、タナベでってどんだけだよ。

 

 

午前はおうちで仕事をしてたんですが、ブログに戻ってしまったので、がんばって出勤しましょう。ぼくは仕事、そこそこ好きだよ。

ささやかな自分の幸せを見失わないための犠牲

普段は日記に書いているような内容を、公開する愚かさを考えると、 ここいらでproject-zukaはいったん幕引きにしようかなと思います。

 

 

さて、バレンタインデーですね。

ぼくは、いつも通りあの子からチョコレートをもらうことはありません。

それは、普通のことだと思っていたのです。けれども、付き合って1年目のバレンタインデーは、確かにあの子はチョコレートをくれたのを思い出しました。懐かしい。ひとつひとつ「常識的」なイベントをしなくなった歴史がありますね。

 

1.「やらせてくれない女の子と付き合い続けることは(自分なら)できない」

2.「遠方からはるばる来たのに、彼氏を置いてけぼりにしてスポーツジムにいっちゃう彼女は、かなり変わっている」

3.「ここ数年チョコレートもらってないの?彼氏はチョコレート嫌いとかじゃなくて、もらったら彼氏は無条件に喜ぶのに?」

 

ちょっと前のぼくは、こういう指摘には、きっと笑っていただろうと思います。

ぼくは、ぼくなりに幸せなのだから。二人はゆるがない。

 

 

けれども最近は、上のようなセリフを近しいひとからもらうと、心が乱れるようになってしまいました。ずかちゃんや、intimate relationをうまく築いている親しい人としゃべっていて、さりげなくあーいうことを言われると、「なぜ、あの子はぼくを苦しめるのだろう?」という、逆恨みもいいところな疑問がもたげてしまいます。

 

別に僕はもともと、「結婚や飲み会や子供とかバレンタインとか全部茶番だって思っている人間」だったのに、ずかちゃんに恋に落ちたせいで、いろいろキャラ設定に無理が生じてきました。

 

 

 

人生のなかで絶妙なタイミングで、ずかちゃんに出会ってしまいました。

 

 

これは、なんの幸福でしょう。

ずかちゃんは、素晴らしかったです。

僕のすべての卑屈をポジティブな言葉で返してくれたし、ぼくが今まで積み重ねて勝ち取り、「あの子にこそ褒めてほしい」ことを、本当に言葉を尽くして褒めてくれました。態度にも出してくれました。

 

ずかちゃんは気立て?、あるいは育ちが良すぎて、前向きな言葉を使うのが上手なだけだって、今なら思えます。息を吸うように、誰にだって前向きな言葉を話す。ですが、今のぼくは、そういう太陽のような性質の持ち主を独り占めにしたいと思い、旦那さんやら近くの学生やらに嫉妬を覚えているのです。あぁ恥ずかしい。

 

 

ずかちゃんによる僕の肯定や、いろいろな人とのお話しは、僕がMK(マジ恋)になる前ですら、自分の置かれている状況を「客観的」にさせました。

 

 

この春に、結婚の申し出を断られ、それでも関係を断たずに生きていこうと言われたときに、この「客観性」をもって、

「彼女は、ぼくの本当に本気の、お金もこれまでの業績も、人間関係もフルに使った(何度目か分からん)プロポーズを、尊重してくれなかった。」と自覚しました。

 

秋には、今いる環境を投げ捨てて、引っ越して一緒にいる選択肢を取れたのだけれど、敢えてその選択肢を取らずにうじうじしてました。

 

 

友人二人と、ずかちゃんのおかげで、いまは、

「彼女は、本当は僕と一緒にいたい。でも、僕にやりたいことを追求してほしくて、僕の人生に大きな肯定があるからこそ、懸命に、引っ越ししなかった僕を責めずにいる。」と落ち着いて理解できています。

 

僕がプロポーズのふりして、彼女に振りかざしたものは、僕の独善的な「成果」であって、たぶん本当の気持ちではなかったと、彼女に見抜かれただけなのです。

 

 

二人で住むはずだった部屋がやたらと広く、

貧弱な空調でなかなか温まらず、凍えそうになりながら、

今日は本命からもらえるので良かったですね とかいう声が頭に反響し、

自分のささやかな幸せを見失わないための犠牲が必要だと感じます。

 

 

 

 

彼女も、ずかちゃんも、そして僕の身近な人たちも、僕が幸せになることを望んている。

僕は、こんなにも人生を肯定してくれる人たちに囲まれている。

それでも不幸のどん底のような顔をしているとしたら、僕は錯覚不幸に陥っている。

 

 

 

 

 

犠牲となるべきは、不埒な僕の恋心でしょう。冷静に言って。

 

 

 

 

 僕は昔、ある方向へのハピネス力が、とても高かったようです。

そしてそれが、彼女を紛れもなく救ったと今なら自信をもてます。

 

 

 

最初の指摘に、微かに生き残る、昔の幸せな僕が回答しよう。

1.ぼくは、あの子が嫌がっているのにムリヤリ求めることはできない(といっても、さすがに男性なので、求め続けるわけですが、そんなときにはオナニーだ!)。

2.彼女がスポーツジムに行き、その間にぼくは仕事をしている。お互いの時間を尊重し合って得られる二人の満足感は、代替不可能な幸福だ。

3.高いチョコレートを嫌がって買ってもらったり、面倒なのに嫌々作ってもらったりするよりはずっと、心穏やかに、二人でチョコパイでも食べていたほうがたのしい。

 

 

ほら、なんの問題もないでしょう。

 

 

ぼくらは幸せなのですし、ぼくはあの子は大好きなのです。

つらくなってきた

ハピネス力分析とか言ってられない。

 

本ブログのいいところは、安全地帯で「ハピネス力の評論」をしているわけではなく、完全にコミットメントしている(精神の危機のリスクを負っている)ことかなと思っているのですが、疑似的にとはいえ、極めて仲良しなイベントが発生すると、

 

・一緒にいるのが本当に幸せ

・一緒にいられないのが(一緒にいるからこそ)辛い

 

という感覚が、両方ともに急速に先鋭化されていくので、まるで10代のようです。

公式通り、「こんな気持ちにしてくれて、ありがとう」と言いたいところですね。

 

 

 

ずかちゃんに会えなくて、

会っていたとしても二人っきりになれないからintimate relationshipがなくて、

あの子からの罵りも、応援も聞こえてこない普通の日に、

「会えなくて、さびしくて、つらい」を観測した。

 

 

なんだろうか、よく感じている錯覚不幸とも違う感覚ですが、

これも比較に由来するものなのかもしれない。

 

「私って、ほんとバカ」

ほんとうのコミュニケーション

「インサイドヘッド」とか、「響け!ユーフォニアム」とかから、引用しないと、なんもしゃべれないくらい、コミュニケーション論には自信がない。

なので、響け!ユーフォニアム」のネタバレで書く。

ネタバレが嫌な人は、以下は見ないでね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「響け!」からの 引用開始

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「だったらなんだって言うんですか!」

先輩は正しいです!部のこともコンクールのことも全部正しい

でも  そんなのはどうでもいいんです !  」

「先輩と本番に出たい!私が出たいんです!!」

「子供で何が悪いんです!先輩こそなんで大人ぶるんですか!全部わかってるみたいに振舞って!」

「先輩だってただの高校生なのに!」

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これに共鳴できる、先輩も素晴らしい。

「ほんとうのコミュニケーション」というのはこういうなのかもしれない、

と、さめざめ心が揺さぶられる。

 

一瞬のみを切り取っては意味がないかもしれない。

この会話にいたる、紆余曲折こそが、

ほんとうのコミュニケーションだぞ、甘えるな

ということなのかもしれない。

 

 

けれど、

「ほんとうのコミュニケーション」は、

口実とか引用とか慣習とかを全て剥ぎ取り、

互いに受け止めあえる信頼と勇気をもった、

動物的本能とも、エコノミックアニマルともまた異なる、

正直で壊れやすい何かの触れ合いなんだろう。と思った。まる。