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錯覚不幸誘導装置としてのPC

身の回りと心にいろいろなことが起きているんだけれど、うぇっとでえもい文章を書く気力が湧かないので(それで昇華しちゃうのも勿体ない!?)、考察じみたことを書こうと思う。

 

 

Political correctness(ぼく定義)

-経費の目的外使用はするべきではない

-勤務時間は守り、それ以外の時間は会社は社員に関与すべきではない

-不倫はするべきではない

-女性に家事を強いる表現(家人など)は排除するべきだ

-マイノリティを差別してはならない

-暴力をふるってはいけない

-職業で差別してはいけない

-子供を愛し、家族は守らなくてはならない

-嘘をついてはいけない(ステルスマーケ、ポジショントークは醜い)

 

その他のもろもろ基準。PCと略す。本来の意味、からちょっと逸脱は赦してほしい。

ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

人が衆目に晒されたときに、上記の基準は「いつ何時でも」成立してしまう正しさだ。

 

比較の基準にPCを選ぶ、

あるいは、他人を攻撃する材料にPCを選んだ時点で、圧倒的勝利が約束されている。

そして、とても残念なことに、世の中はPC通りには動いていない。

 

 

 

インターネットのある現在、自分を表現するには、まずPCを意識したふるまいをせざるをえなくなる。 PCを意識しないと、負けるから。PCを逸脱したやつは大いに叩いて大いに嗤おう。

 

でもこれ、実は多くの錯覚不幸の原因なのではないだろうか??

 

パターンA (じぶんがPC)

①自分は、とあるPCを信じている。

②しかしながら、人間、あるいは組織はPCのみで動いているわけではなく、PCは建前(あるいはネタ)として、ある程度の逸脱をする。

③PCを中心教義に据えた場合に、「自分は論理的には圧倒的勝者になるはずなのに、現実には敗北しつづける」ことになる。

④PCが達成できない自分は不幸だと錯覚することになる。

⑤略

例:自分の所有物は、他人に貸したりする必要はどこにもない。所有権は、当然の権利だ。だけど、何でもかんでも意固地に人にモノを貸さない人物というふうにみられる時があって、なんとなく気まずい 。正しいことをしているはずなのに、居心地が悪い。つらい。

 

 

パターンB (まわりがPC)

①多くの他人・友人は(信念で/正しく振舞いたいから)、PCを論じる。

②しかしながら、自分は政治的に正しいマシーンではなくて、人間だから、みんなが望むPC通りに行動できない。

③承認されるためにも、PCを究極目標に据えた場合に、「自分は本来PCであらねばならないのに、現実には全くPCでない自分を発見し続ける」ことになる。

④PCが達成できない自分は不幸だと錯覚することになる。

⑤略

例:20代後半に妻子があるひとを好きになってしまった。当然、恋愛の果てに結婚なんかは待っていない。結婚しろと言われるけれど、結婚することはできないし、恋愛をやめることもできない。

 

 

大雑把に言って、

-PCはいつも正しく、ある種の幸福の基準である。

-人間社会に生きるかぎりPCから逸脱する

両方が成り立つなかで、声高にPCを叫ぶことは、構造的に錯覚不幸を誘因すると思う。PCは、本来は脇差のように小脇に携え、たまに参考にするくらいのものなんじゃなかろうか。

 

 

 

政治的に正しくなく、倫理的にも正しくない存在になるべし。

ぼくは、怖くて言えない。

 

むろん、人間は社会的な動物でもあるので、組織の中で他人を責めるときに、「あんたが嫌いだ、むかつくよ!」なんて言わずに、「あなたはコンプライアンスに違反していますよ」と冷めた顔で淡々と言うのは、機能的だし合理性が高いと思う。けれども、切れ味が鋭すぎて、自分を切ってしまっては、しかたない。 

 

上記の議論から演繹されることは、

「他人に馬鹿にされるけれど自分は納得感のある価値観をもち」(自己がPC非依存、他人に賞賛される価値観はPCに近すぎるかも)「過度に他人と比較することなく」(他人のPCに左右されにくい)、嬉しいことは嬉しい。楽しいことは楽しい。悲しいことは悲しいと、素直に感じて生きることがハッピーなのかな。塩梅だけど。

 

 

「個人的に大切な物語に支えられた、世に嗤われる人生を生きる」ことが、合理的に正しい?理屈が見え隠れしてきた。まだまだ考えてゆきましょう。

 

 

ずかちゃんが(ぼくに確実に影響されたと分かる)PCっぽい基準で喧嘩をしたらしく、かすかな危機感を覚えたので、しるす。

荒い解決策

実にハピネス力が高い、キレッキレの先輩に会ってきたが、3人目のお子さんが生まれるんだそうだ。外国に住んでいて、生活がかなりカツカツらしい。

いやぁ、しかし幸せそうだった。  

何より、つまんないこと(上司が3時間くらい約束の時刻に遅れるのがデフォとか)を楽しそうにしゃべり、「こうしてネタにできるから、いいよね」と言っちゃうあたりがすごいと思った。    

あと面白かったのは、意識して「スマホを持っていない」ことだ。このご時世で、持っているのは電源が切れたケータイ電話のみ。奥さんはスマホ持っているらしいのだが、少なくとも、「家族四人でご飯を食べるときは、外でも家でも、絶対にスマホを取り出さない」ということを、家の鉄の掟にしているようだった。  

ふむふむなるほど。めっちゃ荒いけれど理屈はよくわかる。

  誰かと話すときは、スマホを絶対に触らない

  割とイケてそうだぞ。試してみよう。 とはいえ、かったるいミーティングの時はつらいんだよなぁ...ほんと。

関数5

新年あけましたので今年の錯覚不幸10以上

・コミュ障 → 人並み以上にコミュニケーションが取れている。川上さんのブログに耽溺するあまりの、不必要な自己否定。たぶん錯覚。リアルで他人と普通にしゃべれる時点でコミュ障ではないんだろう「残念ながら」

・あのこに大事にされていない → たぶん、あのこはぼくの仕事内容を、ぼくと同じくらいに確信をもって肯定してくれている。そしてそれこそが愛情表現だとおもっている。もちろん「普通のイチャイチャ」は全くないけれど、(仮に他人が愛を語らいイチャイチャするのが普通だとしても)それは個々人に依存した個別的な事柄なのだから、必要条件ではないのだ。18の時のぼくだったら、あのこがたまに手を握ってくれるだけで、天にも昇るほど、幸せなはずなのだ。

・ぼくは関わる人をきっと他人を不幸にする/してきた → ぼくと一緒にいなかったとしても、幸福かは分からない。「関わる人を不幸にしている」という思いで生活することにこそ、他人を不幸にする要素がある。自分の興奮する内容を、他人と共有できないので、寂しいだけでしょう。

・ぼくは理解してもらえてない → 少なくないひとから理解されているから仕事があるのだし、よしんば理解されていないとして、それの何が問題なのか。ぼくが理解しているではないか。

・ぼくは友達が少ない → 友達が少ないのはかっこいいと思っているはずで、雑談さえする元気があれば、いくらでも友達はいるはずだ。

・おうちへ帰ると独りだから寂しい → 好きな時に本を読める、好きな時にオナニーできることを教授しつつ言うのは説得力がない。十分楽しんでいるのだ「残念なことに」。みんなとLINEでつながっているでしょう?

・職場で冷遇されている/いた → きっと職場の人たちの気持ちを、十分に把握せずに、"公序良俗"、"政治的正しさ"と"自分が培ってきた基準"からの逸脱に目くじらを立てて断罪しているだけなのだ「残念ながら」

・不潔 → 某方に言われ続けてしまって、それを鵜呑みにしているだけで、今は割と身なりを整えている。客観的には。

・ファッションセンスがない → 家族と某方に言われ続けてしまって、それを鵜呑みにしているだけで、今は割と身なりを整えている。客観的には。

・常識がない → 某方に言われ続けてしまって、それを「悪いこと」と思っていたけれど、アイドルや役者の名前を知らなくても、V6のメンバーすら誰もいえなくても、むしろそれは魅力になりうる。

・女の子に告白されたことがない → ぼくが隙を見せなかっただけなのだ。残念ながら。ぼくを好いてくれていた人は客観的に見ていたんだと思う。女の子に告白されたことのない立場のほうが、ネット的に、世間的に、有利だと思っている節もあるでしょう。だからきっと大丈夫。

・安定していない職業についている → 使命感をもって仕事をできていることは、むしろ希少である。「安定」とは精神が安全であることと、衣食住にしばらく困らない見通しがあることで、いまの職業に打ち込むことと、貯金残高とで十分達成されている。

ふーむ、多少自罰的表現があるのが、まぎれもなくぼくの言葉っぽい。 もっともイケてるのは「常識がないのは、実は魅力である。」かしら。 全体的にzuka関数っぽくないんだけれど、ボールをなげると不幸ではない球をかえせている?ので良しとしよう。

錯覚不幸を打ち消す言葉をさがすときに、半ば諦めのような感覚が伴うのはなんだろう。自分の凡庸さを認めてしまうような。 ともかくも、錯覚不幸は承認欲求が生み出した産物で、錯覚不幸で承認の代替をしているかぎり、 「残念ながら僕はコミュ障ではなかったのかもしれない」という"承認の喪失感"は伴うものなのかもしれません。

そして、きちんと承認が調達できた場合、「よかった、ぼくの不幸は実は思い込みだったのだ」となるのだろう(たぶん)。

逆に言えばこう考えることもできる。

仮説:錯覚不幸の完全な消去には、それと同等のハピネス力や肯定的な物語を必要とする。

攻略本

大変な本を見つけた。

古い友人から「愛着理論」は大人の心の動きや恋愛に関しても利用できるという本を紹介され、 なかなか状況を合理的に説明するのに役立つ考え方だなぁと思っていたのだが、ちょっとすごい本に出合ってしまった。

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂)

恋の本当の目的は相手を得ることではなく自分を「わかる」ことにあるのです

こころの中がネタバレされていく感じ。

ぼくはAVは見るけど、女優も監督も誰一人わからない程度には知識がないんだが、 やっぱ生殖活動を商売にしていて精神に研鑽をつむということは、すごいことなんだろうか。偏見?

こうやって「攻略本」に出くわしちゃうのは、某塾の良し悪しだなぁ。 わが人生や境遇は限りなく凡庸なものだし、先人が漕いだ道の一部をただなぞるにすぎない。 その先人も、同じことを別の角度から悟ったように言っているにすぎないのかもしれない。

この本に書いてある字面を追って、分かった気にならないようにだけは注意しよう。 むしろ、「この方向にすすめばよいのだ」という根拠として、脇に置くくらいがちょうどよい。

自分の言葉で、実感をもって表現できるようになろう。

きちんとプレイをしましょう。

飲み会的なものをしてみた

結局のところ、ぼくにとって"他人と話す"ということは「お題を設定し、暫定解を出す」ということに近い。コミュニケーションとは共感ではなくて、課題の解決だ。

 

"コミュニケーション"は

1. 自分が持っている課題を話し、その解決に他人を巻き込む。

2. 他人が持っている課題を話してもらい、その解決に貢献する。

の二種類に分類される。2. ばっかりで、ぼくの話になるとスルーされると「ああ、こいつは人の話を聞かないやつだ」とか偉そうに思ったりしているけれど、他人が共感を求めているだけの場合、基本的にぼくは対応できている自信はない。

 

共有する課題も特になく、「共感」しか生まない「飲み会」は、アルコールに弱い僕にとって苦痛でしかなく、学生の頃は飲み会が嫌で嫌で仕方がなかった。就職してしばらくして、上層部の政治的な話に食い込めるようになってから、仕事仲間との飲み会はしやすくなった。上層部の人との飲み会は「共感」をしているように見えて、「利害関係の整理」だ。酒をまじえて行う会話は、パズルのピースを集めているように思えて、ゲームとしてとらえるとそれなりに楽しかった。

 

もちろん、これはProject-zukaの本性ではない。

 Project-zukaでは、不特定多数とちょっとずつしかしゃべれない飲み会でも,「たのしい」ものであると仮説される。「共感」そのものか、その周辺を楽しめるものと仮説される。

 

 

 

よく考えると、ぼくと長く続いている友人は、結構ぼくと似たような性質を持っていて、自分から飲み会を企画しそうなやつはいないなぁ(人気者はいるけれど、構ってもらうことに成功しているだけにも見える).

 

 

 

よくよくzuka関数で世界を見ていると、飲み会は「たのしい」もののようで、

それ以上でも以下でもない。単純に人と話すのが楽しい。そういうことなんだろう。そいつは素敵?なことにも思えたので、職場のみんなの飲み会的なものを企画してみた。

 

実験結果としては、

 

やっぱり雑談はあまり面白くなかった。

 

 

結論

 -可愛い女の子を近くで見ている/会話できると楽しい

-ご飯が美味しいと楽しい

 

以上。

前提

ぼくは、人間と人間は、原理上絶対に分かり合えないと思っている。

ユクスキュルを持ち出すまでもなく、ハードウェアが大きく違うからだ。

若いころ、ぼくのごく近くには、統合失調症を患っているひとや、1か月にいちど瀕死になる奇病にかかっているひとや、嗅覚がないひとがいた。

彼らと幼年・少年期の大半の時間を過ごしてきて、わかるのだ。

彼らの実感は確実に僕に内在化できない。分かり合うことはできない。

可能なのは、間違っているかもしれないこちらの想いを投げて、あとは祈るだけだ。

 

人間同士の共同生活だから、嗅覚がなくても、みんなに合わせて「いい匂いだね」と言える。

睡眠障害で苦しむのを知っていながら「旅行はいいね」と言える。

お客さんの前では隠し通すこともできる。

言葉の上での共感は、技術だ。

 


無限に回る共感操作の果てに、

他人の「ほんとうの気持ちっぽい何か」を微かに感じたと確信できるとき、ぼくは無類の幸福を感じる。月の裏側が見えてしまったような、なんというか、そういう素敵さだ。

この幸福の基準は、ちょっと変えることができそうにない。なので前提に置いてみた。

 

project-zukaがいつまで続くかは知らないけれど、

前提さえ覆るような変化が、ぼく自身に起きればいいなとも思う。

 


少なくとも、ずかちゃんの気持ちについては、

ぼくは、形式的には誤謬に緊張する体を取りながらも、本質的には安心して断言できることが多いのだ。

もちろん、「あいつの気持ちは分かっているぞ!」なんて胸を張る気持ちはさらさらないんだけれど。

 

 

月の裏側は、そんなに遠くない、とか。
団子を食べながらのお月見は、ほんとうは楽しいのだ、とか。

 

そういう実感が生まれたりするんだろうか?

ことの真相1

 

ひっこみ事案のあなたとの時間を、もっと楽しむために、

あなたの心の声を代弁する能力を、徐々に徐々に身につけた。

あなたが不快そうな顔をしたときに

「ああ,今,しねって感じでしょ」と”ぼくが”言う。

あなたは頷く。

 

ぼくはよくしゃべる方なので、あなたの思考が声に転換される前に、ぼくがあなたの感情の動きを先回りして言語化します。

大概頷く。嬉しいときも、悲しいときも。

「あなたは、わたしのことを、よく分かってくれている」

しかしながら、ぼくの台詞は、あなたの思考ではなく、ぼくのシミュレータがたたき出した近似解であり、むしろ、ぼくの思考そのものだ。

当たり前だけれど、ぼくの「代弁」には、ぼくの自己評価の低さや、この世に対する呪いの表出も含まれている。自分を防御するためにこそ「代弁」するし、あなたの思考を一定方向にバイアスする効果もある。

 

 

 

ネット民でもなく、世の中に純粋に貢献したいと言っていたあなたが、

プギャーとか、死ね屑とか、日常的に言っちゃう心の習慣を身に着ける過程に、

ぼくの代弁による"観察者効果"が入っていたかもしれないです。

 

 

  

ぼく自身は、他人のシミュレーターを作成して、他人を喜ばせるために全力を尽くす。っていうゲームをプレイしているつもりだったけれども、

ぼくの中の、自分自身の不幸を求める心性のようなものを、長い年月をかけてあなたに擦り付けてきたのかもしれないですね。


謝るつもりもないけれど。

今後は、たのしい観察者でありたいです。